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249日目 

朝9時から祖父の出棺。そして葬儀。母は昨夜祖父のそばで夜を過ごした。


父のいる病院へは、まず妹、そしてぼくと母が後から一緒に父に会いに行った。
「お父さんがね、私の誕生日覚えていてくれたんだよ!」
と、妹が感激していた。昨日父に、明日は妹の誕生日だから、来たらまず、誕生日おめでとうって言わないといけないよ。と言っておいたのだが、それにしても、父はよく覚えて、言ったものだ。驚いた。

夕方から面会に行ったので、いつもならとっくに帰っていたからしらなかったのだが、夜7時半から、数名の患者さんが、食堂で歌を歌っていた。団塊の世代の人たちが、スナック等で歌っているような、昔の歌を歌っていた。

父の知っている歌ばかりだったようで、父はちょっと口ずさんでみたり、車椅子を前後に揺らして踊っているようだった。

たまには、遅い時間帯に面会へ行くのもいいなあと思った。

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相談員とケアマネージャー 

相談員とケアマネージャーが我が家の状況を見にきた。
まさか本当にこんな山奥まで見に来るとは思っていなかったので、びっくりした。

相談員の男性は、初めて会ったのだが、ケアマネージャーの方には2、3回あったことがあった。なんとなくきれいな人だなぁと思いつつ、友人の奥さんに雰囲気が似ているなぁと思ったりしていた。

スロープを作る話や、できなくても裏の敷地から車で上がって来れる話をした。
屋内は手すりを設置する程度で済みそうだ。
玄関には、車椅子で外出するための板をレンタルして設置すればよさそうだった。

ケアマネージャーの女性が、「じゃあ進行状況をブログで更新したりしなきゃですね!」と、一言。

あー見られているのだろうか。困ったなぁ。弱ったなぁ。なんだか恥ずかしいので、美人のケアマネージャーさんは、病院内でブログのことを話さないでください。お願いします。

夕方病院へ行くと、相談員の方とすれ違ったので挨拶をした。喫煙所近くにいた患者さんが
「おーい、あんた随分髪が伸びたねー。そろそろ切らんと、詐欺師って呼ばれるばい」
「どうして?」
「姉歯さんに似てきとるから」
などと喋っていた。なるほど、ちょっと似ているかもしれないが、それはちょっとあんまりにも可哀想だ。

256日目 

杭や材木を軽トラで買いに行っていたので、父の病院に着いたのは夜7時半頃だった。

洗濯物を棚にしまいながら話しかけていたけれど、父はあんまり元気がなかった。
日曜日でリハビリもなく、今日は母が福岡の方へ行っていたので面会に来れず、寂しかったのかも知れない。

30分くらいモーツアルトを二人で聞き入っていたら、
「喉が渇いた。お茶が飲みたい。お茶が飲みたい」
「だめだよ。間違って飲んだらお父さんすっげー苦しくて死んじゃうよ」
「白湯でいいから。喉が渇いた、喉が渇いた」
こんなやりとりをしばらくしていたが、結局、飲ませてしまった。そして誤飲した。
背中を叩き、口にタオルを入れたり、看護師さんにチューブで吸い出してもらったりして、30分くらい父は苦しんでいた。

落ち着くと、父が一生懸命何かを言い始めた。でも分からない。
「あーバカらしい」
そんな言葉ははっきりとわかるのだけど、父が言いたいことが分からなかった。
看護師さんに聞いてもらっても分からなかった。マジックで紙に書かせると、ちょっとずつ分かった。
「今日、何をしたの? etc...」
後半部分はやっぱり分からなかったけど、今日ぼくが何をしたのか聞きたかったらしい。
ぼくが色々話し始めると父は嬉しそうに聞いていた。
そうこうしていると、消灯時間の9時半になってしまい、もうちょっといたかったなぁと思いながら帰宅した。

257日目 

fa1001bd.jpg家の斜面に杭を打って、そこに足場用の杉板を立て掛けてみた。

杭は40cm以上打ち込みたかったので、まず先の尖った鉄の棒を鉄のハンマーで打ち込んで、その後に杉の焼き杭を打ち込んだ。ほんの5、6本打ち込んだだけで握力がなくなり始めた。自分の体力が落ちていることや、初めての土木工事で戸惑いながらも、ちょっとずつコツのようなものが分かった。

力任せに、予定通りにするよりも、やりながら、考えながら修正を加えながらして行った方がぼくにはいいように感じた。

斜面の一番下には、最終的に大きな石を積もうと考えているので、ざっくりとこんな感じで進め、スロープの内側は、きっちり作ろう。スロープの両側を杉板で土留めした後は、見た目と強度アップを兼ね、枕木や石、ブロックなどを使ってみようかと迷っている。

やはり、なんとかなるような気がする。

昨日の晩、父に白湯を飲ませてむせさせてしまったので、今日はとても父が心配だった。一段落したら父に会いに行こうと思っていたけれど、なかなか一段落つかず、行けなかった。母がお昼頃から病院へ行っていたので、携帯電話に電話をしたら、父に代わってくれた。
「はいもしもし」
「お父さん! 元気?」
「うん」
「今日の夕方頃行くから」
「はいよ。今何時?」
「2時15分だよ」
「何時に来るの」
「4時半頃行くよ」
「はいよ」
「じゃあね」
「はい」
と、電話でちゃんと会話ができた。夕方行くと行ったのに、空模様を見ていると、途中で放り出すと土が流れてぐしゃぐしゃになりそうだったので、どうしても行けなかった。

桜の季節 

いよいよ新学期が始まります。
これまでぼくは、取りあえず何か仕事をしながら高校国語の教員免許を取得して、先生になろうとしていた。いい加減夢を追いかける年齢でもないけれど、ぼくはやっぱり先生になりたい。

父が倒れ、一家を支えるためにはきちんと就職をするべきだろうと思ったけれど、一方で、折角生を得ているのだし、ここまで育ててくれた父や母のためにも、あと一踏ん張り頑張って、教師になりたい。高校の国語教員でもいいし、専門学校でもいい。もしくは、どこかの大学や学校の日本語講師でもいい。

納得のいく人生を送ろうと思った。
だからこの春からは「何かしらの仕事」ではなく「先生の仕事」をする。
日本語教師、塾講師、家庭教師。その他にも何か役立ちそうな仕事があったらして行こうと思う。
そして、いよいよ今週から、そういった教育関連の仕事が始まる。
日本語教師は3年間メキシコでしていたけれど、1年半ほどブランクがある。生徒もメキシコ人ではなく、中国人中心となる。

不安なことを考え始めたら、奈落の底まで落ちて行ってしまいそうだけれど、前向きに頑張ればなんとかなるような気もする。
ちなみに、大分県の教員採用試験は40歳まで受けられる。
公立校でなくても、私立でも、一生懸命探せばきっと先生になれるような気がする。

やってみなければ始まらないし、分からない。不安や怠惰に負けぬよう、頑張って行こうと思う。

術後2週間 

ちょっとぽっかり空き時間があったので、意を決して、術後2週間の5日目を、手帳を見ながら書きました。

今は、点滴も酸素の管も髄液を取るためのチューブもなんにもない。
当時が嘘のように危機感のないリハビリ病院で、父は毎日リハビリをしています。

ひそひそ話のようなか細い声で何かを言ったり、
ミミズが張っているような文字を書いたり、
右手を使って意思表示ができるまで回復することが出来て良かったと、
改めて感じます。

術後2週間はもの凄く緊張していて、気持ちが張りつめていた割に、特に何を考えてるわけでも、何をしているわけでもないのに、一日一日があっという間に過ぎ去って行った。手帳に書いていた日記を読んで、当時を思い出しながら書くと、ありありと思い出すことが出来る。辛いけれど、自分の中で術後の2週間が風化していくのが怖いと感じるので、忘れることはないと思うけれど、風化しないうちに、辛いけれど、ちょっとずつアップしていこうと思います。


最初の病院は、脳神経外科手術は素晴らしくて、父はあの病院に担ぎ込まれていなかったらきっと救われていなかったと思います。

そして、手術が成功したものの、褥瘡(じょくそう・床ずれ)が酷くなり、微熱が続き、下痢も止まらず、いつまで立っても意識が回復しなかったため、かつて妹が勤務していた総合病院に転院させてもらいました。
この病院では、褥瘡、下痢、シャント術をしてもらい、意識回復の希望が見えてきました。

父に意識があり、微妙に反応を示してくれているのは家族しか分からないという、非常に低い意識レベルでしたが、リハビリ病院に行くことができ、そこに移ってからというもの「1週間でこんなに回復したのか!」と驚くほど回復しています。


「もうちょっと早く転院していれば…」と思うこともあります。
でも一方では、それぞれの病院で、それぞれ得意とする分野を治療してもらえて
「本当に運が良かった」とも思います。


うちは幸いにも妹が看護婦で、大きな総合病院で数年勤務していたし、ぼくの唯一無二の親友が産婦人科といえども医師だったり、一時期は結婚まで考えた昔の彼女が看護師だったということもあり、病院や医師をできるだけよく理解しようと心がけることができたように思えます。

クモ膜下出血は突然訪れて、家族をどん底に突き落とします。それぞれの家族の状況や、倒れた方の状況もそれぞれみなさん違うと思います。もし、ぼくたち家族が経験しながら感じ、あれこれしてきたことが、愛する人が倒れた家族にとって、ちょっとでも参考になればと思います。
あきらめてはいけないと思うし、覚悟を決めておくことも大事だと思います。だけどちょっとだけ、笑うことのできる、気持ちの余裕も必要だと思います。
そうしないと、冷静な判断ができなくなるでしょうし、病院や医師を理解し、タイミングよく転院をしたりする思考力が鈍ります。


最近は、自宅介護に向けた自宅改造だかガーデニングだか分からないようなことを一生懸命しております。週末しかしていないのですが、久しぶりに身体を酷使しているので、筋肉痛が木曜日になってもとれません…。
はやく、父が帰ってきた時の笑顔が見たい。

263日目 

駐車場整備をして、ケリがついたら行こうと思っていたのだが、疲れ果てて行けなかった。
母の携帯に電話して、父に代わってもらった。

「ごめん、お父さん、今日は行けんけん、明日行くけん」
『なんで?』
「駐車場の土留めをしとったら遅くなってしまった」
『昨日飲み過ぎたんじゃろ。ふふふ』

不思議と、倒れてからのほうが、こんな楽しい会話ができるようになっている。

271日目 

父の兄、ぼくにとっての伯父さんが、父に会いに来てくれた。
父が高校を出る時に、学費の面倒を見てくれたりしていたから、父に取っては単純に兄貴という存在ではない長兄である。

その長兄に
「こっちから半分はぼやけてあんまり見えないんだが、反対側は見える」
と、視野が狭まっていることを説明していた。

ぼくたち家族にとってもそんなことは初耳だったのでびっくりした。
右脳が傷ついているから、おそらく視野が狭くなっているんだろうなぁとは考えていたけれど、どのくらい狭くなっているのかは知らなかった。

親戚も母も帰った夕方、父の寝るベッドの側で、ひとりぼんやり座っていたら、父がじーっとぼくの顔を見ていた。
なんだか嬉しかった。

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