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日記 

医師には専門があり、当然専門外のことになると、研修医レベルまでの知識しかないとか、あるいは興味がないといった場合があるのだと、今回知った。


特に、脳神経外科のような、高い技術と、最新の技術が要求されるような分野で頑張っている医師は、脳の手術は非常に優秀だが、その後のケアについては非常に疎いのだという印象を受けた。


手術が大成功して医師を信用しきっていた1ヶ月後に、6cmもの褥瘡ができた。

手術が成功したために、医師をはじめとする病院を信用しきっていたのだが、褥瘡ができるというの看護士の明白な「怠慢」でしかなく、それも6cmもの大きさである。


「脳ではない分野で、父が参ってしまう!」と思い、急いで転院することができたのは、家族に看護士である妹がいたからである。


現在の医療システムでは、病院に3ヶ月以上入院することはできない。それ以上長くいると、病院の経営を圧迫するらしい。だから、いい病院に辿り着いても、また3ヶ月後には病院を探さなければならない。

今回転院して、父はまたICUに入っている。1日9万円の費用が、ICUにいるだけでかかる。

転院するたびに、検査やら、病状を看るためにしばらくICUに入っていては、家族の経済は破綻してしまう。


折しも、先月の選挙で大勝した自民党が、高額医療費の補助について、見直しを検討している。

定年し、収入がなくなる。そうなると、毎月の出費を抑えるために、生命保険を縮小する。そして、倒れたら、僅かの保険金の給付と、毎月100万円近い出費が必要となる。

父の場合、高額医療費の補助によって、患者の負担する実費が、約7万5千円程度で済むのだが、もし、両親に貯金がなかったら、毎月7万5千円を病院に支払い、おむつ、パジャマ、洗濯物といった雑費も必要となる。


補助を受けるための手続き、お見舞いにきてくれた人への配慮、父に必要なものを揃えたり、情報を集める時間も必要になる。


正直言って、お見舞いにいっている時間がもったいないくらい、忙しくなる。また、お見舞いにいく時間があったら、副業を身につけたいと思う。


仕事と看病を両立することは、精神的に、肉体的に、経済的に、こんなにしんどいものだとは思ってもいなかった。

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78日目 転院して一週間 

10月6日(木)に、日田市の脳神経外科専門病院から、福岡の総合病院に転院した。

救急タクシーと呼ばれる、救急車のようなタクシーに、看護士である妹が共に乗って、無事転院。

転院先は、妹が半年前まで働いていた総合病院。

日田の病院は、脳に関しては相当しっかりした病院のようだったが、入院患者へのケアがどうもよくないと感じていた。


 1ずっと下痢が続いていたことを言ってくれなかった。

  →毎週頼んでいた医師からの病状説明で、説明がされていなかった。

   隠そうとするつもりはなかったのだろうが、言ってくれないと分からない。


  ※転院後判明したのだが、父は脱水症状になっていた。


 2褥瘡(じょくそう)が6cmまで広がっていた。

  →妹が約5年間勤務していた病院で、ここまで大きな褥瘡(じょくそう)を、

   入院患者に作ったことはない。

   父は肌が弱く、褥瘡ができやすかったのかもしれない。

   しかし、褥瘡ができていたのは、父だけではない。

   同室で寝ていた老人は、褥瘡で骨まで穴が開いてしまったため、

   他の病院へ手術のために転院した。


  ※転院後7日目の検査では、褥瘡が5cmになり、傷の中の方が盛り上がってきているので快方に向かっている。


 3体臭

  →入院当初、手術があったり、命を取り留められるかどうかという瀬戸際だったため、

   感染症を起こさないようにとてもきれいに父を拭いてくれていたようだった。

   しかし、入院後2、3週間すると、体臭、口臭が強烈に臭くなってきた。

   口を開けて呼吸していたので、父の唇と、舌は、表面がパリパリになって、

   アカギレで血が滲んでいた。


  ※転院後7日目に面会したが、アカギレはなくなっていた。また、口臭も体臭も収まっていた。


 4熱

  →手術後の約2ヶ月間、ずっと37度以上の熱が続いていた。

   一時は点滴が全て外れ、チューブを胃に通し、栄養を胃から採るようにしていたが、

   下痢が酷く、やつれる一方なので、静脈に直接入れる濃い点滴が、

   9月の下旬から入っていた。

   医師は、どうして熱が続くのか分からないといっていた。


  ※転院後7日目には、熱は36度3分に落ち着いている。
   転院後2、3日目には、38度まで高熱になったこともあったようだが、その後は36度代で落ち着いている。



   また、熱が落ち着き始めた転院5日目の深夜、

   「中村さーん」と看護士が呼びかけると、

   「はーい」と答えたらしい。その後7日目までの間に、返答したことはまだない。

   母や妹、そしてぼくという、家族だけが、父の意識が回復していると、

   僅かな表情で喜んでいたのだが、

   今回初めて、第三者が、父の意識回復を知らせてくれた。


   検査で、父は牛乳アレルギーがあることが分かった。

   日田の病院で、父が下痢を始めた原因は牛乳だった。

80日目 

ICUに8泊し、今日から個室に移動した。
経済的にも、心理的にも、2人部屋がよかったのだが、あいにく空いていなかったので、個室となった。

ICUからいきなり2人部屋へは移れないかもなあと思っていたので、しばらくして、病院側が良いと思った時期に、2人部屋や、4人部屋に移してくれるといい。


転院する前にいた病院で、父が倒れた当初は
「他人と同じ部屋で、倒れている父の看病はしたくない」
と思った。でも、個室で、家族だけになってしまうより、複数のベッドがあった方が、なんとなく気持ちが楽だと、後で分かった。

カーテンのしきりもあり、最近の病院は想像以上にきれいで、広い。真っ白でなにもないワンルームマンションの部屋みたいな個室より、4床ほどの部屋の方が落ち着く。


「ベッドを移動したことで、父がちょっと怖がっているような気がする」
と母が言っていた。

体力の回復 

体内炎症のレベルが、7.5から2.3まで下がり、熱が36度代に落ち着いている(上がっても37度代)。褥瘡も6cmから5cmになった。

最初に入院していた病院では、一時流動食がチューブで胃に入れられていたが、流動食が始まってから、下痢がずっと続いていた。父は、牛乳に、若干アレルギーがあるということが、転院先の現在の病院の検査で分かった。

前の病院は、そんなことも検査をしないで、流動食を与えていたのかと、驚き、失望した。脳の手術は一流でも、入院患者についてのケアは、本当に酷かったのだと思った。

かといって、倒れた時、現在の総合病院に担ぎ込まれていたらきっと、父は手術を受けられなかったのだろう。

病院によって、得意分野、不得意分野があり、患者側はそこをきちんと把握して、医療を受けなければ、治る物も治らなくなるのだと実感した。

81日目 

仕事から帰宅すると、母が泣いていた。

父は、転院して、体力は徐々に回復している。そういった説明と同時に、今日、医師から「ひょっとすると意識が回復しないかもしれない」と言われたらしい。

もっと優しくしてあげておいておけば良かった。
あんまりお父さんがかわいそうだ。
といいながら、泣いていた。

神経過敏になっている妹の前では言えない弱気なことをぼくに言いながら、泣いていた。

最後の希望として、来週、水頭症の手術を実施し、意識の回復を期待する。


クモ膜下出血で倒れた時、意識があった患者なら、術後、意識が比較的早く戻るらしい。だが、父の場合は、親指より大きな動脈瘤が破裂し、右脳の1/3から半分までが損傷し、なおかつ、倒れた時には意識不明で、瞳孔も開き、自発呼吸も弱かった。こういった場合、意識が回復する見込みは低いらしい。


今の病院にはあと2ヶ月はいられるが、その後、寝たきり病人の施設ではなく、リハビリ施設への転院を紹介してもらい、来年の春までに意識が戻らないようなら、父が昨年建てた山奥のセカンドハウスで引き取り、面倒を見よう。そんなことを母と話した。

意識が戻らない状態が続くと、寿命も残りわずかだろうと、医師に言われたことも、母にはショックだったようである。


父が倒れ、母が悲しみ、妹が神経過敏になっていている。ぼくは、こんな状況だからこそ、明るい未来が見えるような目標を立てて行きたいと頑張ってみるのだが、現状では全てが絵空事のように思えてしまい、なにもかもが嫌になってしまいそうにもなる。
結婚し、ちいさな子どもがいれば、もうちょっと家族の雰囲気もちがったものになっていたのかもしれない。

83日目 お墓参り 

朝7時過ぎに家を出て、父の実家へ行った。

明日、水頭症の手術をする。
その後1週間経っても意識が回復しないようであれば、
今後、意識が戻る可能性は非常に低いと医師にいわれている。

父の実家でご先祖様にお線香を上げた。
もうすぐ90になるおばあちゃんが半ばボケながら、それでも相変わらず元気で、羨ましかった。

来月の下旬、祖父の七回忌のようなので、また来月に行く予定。

今日はきつくて、父のお見舞いには行けなかった。

84日目 

水頭症の手術をした。
脳は髄液という液の中で、ぷかぷか浮いているような状態でいるのだが、髄液の吸収ができなくなると、脳の中に髄液が溜まる。そのことで、意識障害が生じる。
溜まった髄液をなんとかするための手術が、水頭症のシャントと言われる手術だ。


父の場合、水頭症というほど、髄液が脳に溜まっている様子ではない。ただ、意識回復の可能性を高めるために、水頭症の手術を行った。
今回の手術の目的は、あくまでも意識回復のためのきっかけ作りである。

通常の水頭症手術では、脳から胃までチューブを皮下に通し、脳に溜まった髄液を、胃に流し込む。脳内に余分に溜まった髄液を胃に流し込んで消化するのだ。

チューブを皮下に通す理由は、感染症にかからないようにするためである。髄液に届いているチューブが、空気中に出ていると、感染症に罹ってしまう。


父の場合、意識回復のためのきっかけ作りが目的。そのため、今日の手術では、脳から胸までチューブを通し、胸から外にチューブを出し、感染症の恐れが出る2週間以内に、チューブを抜くか、胃まで伸ばすか、見極める。


水頭症手術の効果が見られるようなら、チューブを更に胃まで伸ばす。
効果が見られないようであれば、チューブを抜く。


効果は4日後以降に出てくる。
10日経っても効果が見られない場合は、意識が戻らない可能性が高くなる。


重度のクモ膜下出血で倒れ、右脳の1/3から1/2が傷ついており、意識の回復の見込みが薄いと医師に言われた。
でも、父の意識が少しずつだが、戻りつつあるということは、家族には分かる。


近況報告を一通りすれば、口を動かし、声を出そうと呻くようになった。
父に行った治療の説明をしている時には、耳を立てていることが分かる。
何を話しかけても眠っているような時が続くときがあるというのも分かる。


最悪の場合を覚悟しながら、それでも、父は回復すると信じて、ぼくは自分自身の将来や、生活のために、頑張る。
父が回復した時、胸を張って「親父がんばったな!」と言いたい。

85日目 水頭症手術から2日目 

昨日、水頭症の手術をし、脳にチューブを入れ、余分な髄液を脳からチューブで抜く、シャントの手術をした。そのため、昨日の父は、頭から首までがパンパンに腫れていた。心配した母は病院に泊まって付き添った。

この水頭症の手術次第で、今後の意識回復がある程度分かる。
1週間前後で意識が回復するか、もしくは、意識はゆっくりと戻るか、意識回復はこれ以上望めないか――。



今日、初めて、右手を上げたり下げたりする反応を示した。
「分かったら手を下げて!」
というと、腕をがくがくさせながら、手首を下げる。

「手を挙げて!」
といえば、腕をがくがくさせながら、手首を上げる。

「じゃあ、腕を下げてみて!」
というと、肘から腕を下げ、手をベッドにおろすこともできた。
上げることも、半ば痙攣しているような震えを伴いながらも、できた。


目を薄くあけて、右手を上げ下げできたことは、大きな進歩だ。


夜再び面会に行くと、父は起きていたようだったが、意識がもうろうとしているようで、それでいて、一瞬覚醒し、もの凄く寂しそうな目をすることがあった。

面会時間を過ぎて行ったので、10分位で帰ろうと思っていたが、あんまり寂しそうなので立ち去り難く、1時間ほどいた。



倒れて気づいたら、病院で寝ていて、五体が不自由で、言いたいことも言えない。
意思表示ができなくて、意識がはっきりと覚めていたとしたら、不安で怖くてたまらないだろう。
母、妹、ぼくのだれかが面会に来た時にだけ、パッと意識を戻して、意識回復のリハビリをする。立ち去る前に、とにかく眠って欲しかった。

86日目 水頭症手術から3日目 

転院してからというもの、母や妹と一緒に朝から病院へ行ったことがなかった。
だから今朝、母と一緒に病院へ行って、朝一番に何をするのかがわからず、ちょっととまどった。


「おはよう」の挨拶の後、母はひげを剃ってあげたり、熱湯に浸したタオルで顔を拭いてあげたりしていた。妹も途中から病室に来て、こまごまとなにかしている。

ぼくは、母や妹の動きをあまり気にしないで、父の手を握って「おはよう! なんか言えんね!」などと声をかけたりしていた。そして、父の左腕を動かした時、左手首に入っていた点滴を抜いてしまった…。
なんとなく病室にいづらくて、小1時間ほど外に出た。


病室に戻ろうとすると、食堂から妹の声がした。父は、車椅子に乗って、見晴らしのいい食堂から外を見ていた。

「腕を上げて!」
「腕を下げて!」
と、昨日やった右腕を上げ下げする動きを、今日もできるかどうか聞いてみると、できた!
車椅子に座っていると、腕を上げ下げするのにちょっと力が必要なのか、腕も足もひどくガタガタ震わせていた。それでもなんとか、腕をあごの下辺りまで、何回か上げることができた。


力んで足がガタガタしているのなら、ひょっとすると足も多少は上げ下げできるのかもしれないと思い、

「じゃあ今度は右足を上げてみて!」
と言うと、ガタガタと震わせながら、微かに右足を上げた!
これは2、3回しかできなかったけれど、どうやらリハビリをすれば、右手、右足はなんとか動くようになるような気がする。


父は、腕や足を上げ下げしている間、頭や顔から汗を一杯かいた。

1時間ほど車椅子に座った後、ベッドに戻った父は、疲れた顔だったけど、ちょっと爽快な感じに見えた。


眠った後、ぼくは一時帰宅。
母と妹は残った。1時間ほどすると父はまた目を覚まして、歯ブラシを持たせたら、歯を磨こうとするような動作――口を大きく空け、手に持った歯ブラシを口に持って行くーーをしたらしい。


夜、8時頃ぼくは一人で病院へ行くと、父はちょっと目を覚ましてくれたようだったが、疲れているのか、すぐに深く眠ったようだった。


意識回復の見込みが最も高いと言われているこの1週間は、毎日父に会いに行って、家族しか分からない臨機応変な対応で、意識回復の手がかりを父に掴ませたい。

87日目 水頭症手術から4日目 

初めて、ぼくは父のリハビリに立ち会った。
母と妹はなんども立ち会っているようで、慣れた感じで見ていた。


リハビリの前、父は車椅子に載せられて検査にいった。
検査で頭のCTを撮り、看護婦さんが車椅子に載せて病室に戻って来ると、リハビリの人――おそらく理学療法士――が来た。


「こんにちわー」
と言われると、父は頭を何度も頷いて、「どーもどーも」と挨拶をしているようだった。

車椅子に座ったまま、ゆっくり優しく肘を伸ばしたり、指を伸ばす。
「痛いですかー」
と言われると、首を横に振る。
リハビリを受けている間の父の表情は、えらく真剣な表情で、左目だけではなく、右目も明けていた。


車椅子に座ったまま検査に行っていたので、車椅子に座ってから既に30分以上が経過しており、脈拍も上がってきたので、その後のリハビリはベッドに寝かせて行った。


大きすぎない、大きなしっかりした声で、父に声をかけながら、ゆっくりゆっくりと、腕や足の間接を曲げる。ただ曲げるだけではなく、固まった間接を上手に伸ばすために、ちょっと絞るような感じで、そして、なんだかつぼを押すような感じで、じっくりじっくり父の身体の関節を伸ばしてくれた。

リハビリの後、父の表情が良くなった。


今日の昼、病室を訪れると、父は既に左目を明けていた。
人差し指を立てて、明いている左目を突き刺すような感じで目の反応を見る。全然怖がった素振りを見せない。明いているだけで、何かが見えているわけではない様子。
表情も無表情で、昨日とは打って変わって、意識のレベルが低かった。


リハビリで、父の意識はちょっと覚醒したのだろう。だが、昨日ほど、右腕をはっきりと上げ下げしたり、右足を動かしたりできなかった。
ぼくが手を添えて、力を助けると、右腕を手首、肘、肩からそれぞれ上げ下ろしすることはできた。


今日は日中ずっと、目を開けていたので、父は父なりになにか考えがあって、腕の動きよりも開眼のほうに重点をおいていたのかもしれない。


CTの結果を、医師が伝えにきてくれた。
髄液がまだちょっと脳内に多いようだ。とのことだった。


多分、ドラマのようにパッと意識は戻るのではなく、父の場合は、じんわりじんわり、ゆっくりと戻って来るのだろう。

声が出せるようになればいい。父の声が聞きたい。

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