スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

78日目 転院して一週間 

10月6日(木)に、日田市の脳神経外科専門病院から、福岡の総合病院に転院した。

救急タクシーと呼ばれる、救急車のようなタクシーに、看護士である妹が共に乗って、無事転院。

転院先は、妹が半年前まで働いていた総合病院。

日田の病院は、脳に関しては相当しっかりした病院のようだったが、入院患者へのケアがどうもよくないと感じていた。


 1ずっと下痢が続いていたことを言ってくれなかった。

  →毎週頼んでいた医師からの病状説明で、説明がされていなかった。

   隠そうとするつもりはなかったのだろうが、言ってくれないと分からない。


  ※転院後判明したのだが、父は脱水症状になっていた。


 2褥瘡(じょくそう)が6cmまで広がっていた。

  →妹が約5年間勤務していた病院で、ここまで大きな褥瘡(じょくそう)を、

   入院患者に作ったことはない。

   父は肌が弱く、褥瘡ができやすかったのかもしれない。

   しかし、褥瘡ができていたのは、父だけではない。

   同室で寝ていた老人は、褥瘡で骨まで穴が開いてしまったため、

   他の病院へ手術のために転院した。


  ※転院後7日目の検査では、褥瘡が5cmになり、傷の中の方が盛り上がってきているので快方に向かっている。


 3体臭

  →入院当初、手術があったり、命を取り留められるかどうかという瀬戸際だったため、

   感染症を起こさないようにとてもきれいに父を拭いてくれていたようだった。

   しかし、入院後2、3週間すると、体臭、口臭が強烈に臭くなってきた。

   口を開けて呼吸していたので、父の唇と、舌は、表面がパリパリになって、

   アカギレで血が滲んでいた。


  ※転院後7日目に面会したが、アカギレはなくなっていた。また、口臭も体臭も収まっていた。


 4熱

  →手術後の約2ヶ月間、ずっと37度以上の熱が続いていた。

   一時は点滴が全て外れ、チューブを胃に通し、栄養を胃から採るようにしていたが、

   下痢が酷く、やつれる一方なので、静脈に直接入れる濃い点滴が、

   9月の下旬から入っていた。

   医師は、どうして熱が続くのか分からないといっていた。


  ※転院後7日目には、熱は36度3分に落ち着いている。
   転院後2、3日目には、38度まで高熱になったこともあったようだが、その後は36度代で落ち着いている。



   また、熱が落ち着き始めた転院5日目の深夜、

   「中村さーん」と看護士が呼びかけると、

   「はーい」と答えたらしい。その後7日目までの間に、返答したことはまだない。

   母や妹、そしてぼくという、家族だけが、父の意識が回復していると、

   僅かな表情で喜んでいたのだが、

   今回初めて、第三者が、父の意識回復を知らせてくれた。


   検査で、父は牛乳アレルギーがあることが分かった。

   日田の病院で、父が下痢を始めた原因は牛乳だった。

スポンサーサイト

80日目 

ICUに8泊し、今日から個室に移動した。
経済的にも、心理的にも、2人部屋がよかったのだが、あいにく空いていなかったので、個室となった。

ICUからいきなり2人部屋へは移れないかもなあと思っていたので、しばらくして、病院側が良いと思った時期に、2人部屋や、4人部屋に移してくれるといい。


転院する前にいた病院で、父が倒れた当初は
「他人と同じ部屋で、倒れている父の看病はしたくない」
と思った。でも、個室で、家族だけになってしまうより、複数のベッドがあった方が、なんとなく気持ちが楽だと、後で分かった。

カーテンのしきりもあり、最近の病院は想像以上にきれいで、広い。真っ白でなにもないワンルームマンションの部屋みたいな個室より、4床ほどの部屋の方が落ち着く。


「ベッドを移動したことで、父がちょっと怖がっているような気がする」
と母が言っていた。

体力の回復 

体内炎症のレベルが、7.5から2.3まで下がり、熱が36度代に落ち着いている(上がっても37度代)。褥瘡も6cmから5cmになった。

最初に入院していた病院では、一時流動食がチューブで胃に入れられていたが、流動食が始まってから、下痢がずっと続いていた。父は、牛乳に、若干アレルギーがあるということが、転院先の現在の病院の検査で分かった。

前の病院は、そんなことも検査をしないで、流動食を与えていたのかと、驚き、失望した。脳の手術は一流でも、入院患者についてのケアは、本当に酷かったのだと思った。

かといって、倒れた時、現在の総合病院に担ぎ込まれていたらきっと、父は手術を受けられなかったのだろう。

病院によって、得意分野、不得意分野があり、患者側はそこをきちんと把握して、医療を受けなければ、治る物も治らなくなるのだと実感した。

81日目 

仕事から帰宅すると、母が泣いていた。

父は、転院して、体力は徐々に回復している。そういった説明と同時に、今日、医師から「ひょっとすると意識が回復しないかもしれない」と言われたらしい。

もっと優しくしてあげておいておけば良かった。
あんまりお父さんがかわいそうだ。
といいながら、泣いていた。

神経過敏になっている妹の前では言えない弱気なことをぼくに言いながら、泣いていた。

最後の希望として、来週、水頭症の手術を実施し、意識の回復を期待する。


クモ膜下出血で倒れた時、意識があった患者なら、術後、意識が比較的早く戻るらしい。だが、父の場合は、親指より大きな動脈瘤が破裂し、右脳の1/3から半分までが損傷し、なおかつ、倒れた時には意識不明で、瞳孔も開き、自発呼吸も弱かった。こういった場合、意識が回復する見込みは低いらしい。


今の病院にはあと2ヶ月はいられるが、その後、寝たきり病人の施設ではなく、リハビリ施設への転院を紹介してもらい、来年の春までに意識が戻らないようなら、父が昨年建てた山奥のセカンドハウスで引き取り、面倒を見よう。そんなことを母と話した。

意識が戻らない状態が続くと、寿命も残りわずかだろうと、医師に言われたことも、母にはショックだったようである。


父が倒れ、母が悲しみ、妹が神経過敏になっていている。ぼくは、こんな状況だからこそ、明るい未来が見えるような目標を立てて行きたいと頑張ってみるのだが、現状では全てが絵空事のように思えてしまい、なにもかもが嫌になってしまいそうにもなる。
結婚し、ちいさな子どもがいれば、もうちょっと家族の雰囲気もちがったものになっていたのかもしれない。

85日目 水頭症手術から2日目 

昨日、水頭症の手術をし、脳にチューブを入れ、余分な髄液を脳からチューブで抜く、シャントの手術をした。そのため、昨日の父は、頭から首までがパンパンに腫れていた。心配した母は病院に泊まって付き添った。

この水頭症の手術次第で、今後の意識回復がある程度分かる。
1週間前後で意識が回復するか、もしくは、意識はゆっくりと戻るか、意識回復はこれ以上望めないか――。



今日、初めて、右手を上げたり下げたりする反応を示した。
「分かったら手を下げて!」
というと、腕をがくがくさせながら、手首を下げる。

「手を挙げて!」
といえば、腕をがくがくさせながら、手首を上げる。

「じゃあ、腕を下げてみて!」
というと、肘から腕を下げ、手をベッドにおろすこともできた。
上げることも、半ば痙攣しているような震えを伴いながらも、できた。


目を薄くあけて、右手を上げ下げできたことは、大きな進歩だ。


夜再び面会に行くと、父は起きていたようだったが、意識がもうろうとしているようで、それでいて、一瞬覚醒し、もの凄く寂しそうな目をすることがあった。

面会時間を過ぎて行ったので、10分位で帰ろうと思っていたが、あんまり寂しそうなので立ち去り難く、1時間ほどいた。



倒れて気づいたら、病院で寝ていて、五体が不自由で、言いたいことも言えない。
意思表示ができなくて、意識がはっきりと覚めていたとしたら、不安で怖くてたまらないだろう。
母、妹、ぼくのだれかが面会に来た時にだけ、パッと意識を戻して、意識回復のリハビリをする。立ち去る前に、とにかく眠って欲しかった。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。